覚え書き

※宮司・大島が見聞きしてきたあれこれ、つらつら考えたことを、下手の横好きで勝手気ままに綴っております。不定期更新。拙文ご容赦ください。

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2011年5月29日 映画「ミツバチの羽音と地球の回転」上映会

 「六ヶ所村ラプソディー」に続く、鎌仲ひとみ監督のドキュメンタリー作品である。

 主たる舞台は瀬戸内海に浮かぶ、山口県祝島。島の真向かいの田ノ浦に、中国電力が上関原子力発電所の建設を予定している。島の人々は四半世紀以上にわたって建設反対を訴えてきた。

 埋め立て工事のためのブイ設置を阻止すべく、島民たちは漁船を出して海上ピケをはる。中国電力の船がやってきてこう言う。「このまま第一次産業をやっていても、島は衰退していくばかりですよ」…こんなセリフを平気で口にする。現在日本で運転中の発電用原子炉は50基を超える。全国どこでも同じような光景が繰り広げられてきたのだ。

 たしかに、半農半漁の静かな島は高齢化が進んでいる。しかし、反対運動の先陣を切ってきた「おばちゃん」たちはまだまだ元気である。中国電力の呼びかけに「帰れ!帰れ!」と威勢良く切り返す。

 上関原発建設に関しては、予定地の一部を地元の神社が所有しており、当時の宮司は土地売却を拒んだが、推進派の氏子と対立、2003年に神社本庁によって宮司が事実上解任されるという事態に至った。

 この土地でも原発誘致が地元を二つに引き裂いたのである。

 途中、スウェーデンで進められている持続可能なエネルギーの利用が取り上げられる。スウェーデンは1980年に国民投票で脱原発を決めている。電力も自由化され、環境により配慮した会社を選んで購入することもできるという。現地の環境コーディネータが、インタビューする監督に「日本は地熱など豊かなエネルギー資源を持っているのだから、活用しなければ」と諭すように言う場面もあった。

 一方、日本からも、地域ごとに分散してエネルギーのいわば「地産地消」をめざす取り組み(環境エネルギー政策研究所・飯田哲也氏)が紹介されている。

 「六ヶ所村」では、反対派に軸足を置きつつも、反対派・推進派双方の声を聞きとっていたが、今回は立ち位置がもっぱら反対派の側に固定されている。ドキュメンタリーとしてはどうなのだろう、とも考えた。あるいは、監督自身の中で、もはやそんなことを言っている場合ではないという思いが大きく育ったのか。

(江東区古石場文化センター)

 

2011年5月10日 映画「100,000年後の安全」

 

 

 フィンランドで建設されている放射性廃棄物最終処分施設をめぐるドキュメンタリー。

 フィンランドは、原子力発電によって生ずる放射性廃棄物を処分する方法として、廃棄物が安全な物質に変化するまで、すなわち最低10万年の間、地中深くに保管する道を選んだ。地下500メートルまで掘り進んで造られる、フィンランド語で「オンカロ」(「隠された場所」)と呼ばれる巨大施設の完成は22世紀だという。映画はプロジェクト責任者、行政担当者らへのインタビューを中心として構成される。合間に挿入される工事現場や稼働中原子炉の映像の美しさは圧倒的である。

 後半での議論は、遠い未来に我々の子孫がオンカロを掘り出したりはしないかという懸念が中心になる。

 フィンランドの施策が先の世代に対する強い責任感を行動原理としている点は、日本の原子力行政とは全く異なる。

 ただ、素朴な感想として、いささか気になったのは、誰もがオンカロ自体の堅牢性に絶対の自信を抱いていること。世の中に「絶対」はない。しかも、10万年という時間は人類のこれまでの文明史とは比較にならぬほど長い。いくら堅牢な施設だと言ってみても、人類の現時点での知識や想像力(いわゆる「想定」)を前提としての話である。そのことを忘れてはならないのではないか。

 莫大な人口を擁する中国やインドの消費電力が今の欧米諸国並みになったら、日に3基の原子炉を建設しなければならなくなる、ということを初めて知った。そして、ウランも石油・石炭同様、枯渇する資源だということも。持続したとしても、あと100年だという。

 巨大な地下都市を思わせるオンカロをもってしても、収容できるのは発生する廃棄物の一部にすぎないという。今のまま原子力発電を続けていくなら、世界中にいくつものオンカロを造らなければならない。それが今の世界なのである。

 プロジェクト担当者の女性が、未来の人類へ宛てたメッセージとして語ったことばが印象的だった。「今よりもっと良い世界を作ってください。幸運を祈ります。」...本音だろう。

(渋谷・UPLINK FACTORY)

 

2011年5月6日 「安部典子 “TIME LAG”- Linear- Actions Cutting Project 2011」

 白い何枚もの紙を重ねて、入り組んだ海岸線のような複雑な形に切る。一枚の紙を取り除き、その形に沿って、縁をごく僅か切り落とす。また一枚取り除き、その形に沿って…、と同じ作業を繰り返す。すべての紙を切り終えたら、取り除いた順に下から重ねていく。ちょうど地図が等高線の通りに立体に立ち上がったような形が出来上がる。安部典子の創作技法は、このような過程の果てしない繰り返しであると想像される。

 ことばにしてしまうと単純なようだが、恐ろしく精密で、忍耐と集中を要する作業である。

 そして、出来上がった作品は、まるで粘着性をもった物体のようで、素材が紙であることを忘れさせてしまう。ことに、「立体地図」の、山の稜線が並行して走る部分を横方向から観ると、あたかも波が幾重も寄せてくるかのようで、その動感に惹き付けられる。

 束ねられた紙の mass としての質感。分厚い本を開いて小口から眺めたときの形の不思議さ。恐らくは作家の原体験が生きているのだと思う。実際、河原温の作品集に切り込みを入れたオマージュもあった。

 複雑な形に切り取られ、重ねられた紙が作り出す不思議な立体。その曲線・曲面を眼で辿る行為は官能的でさえある。

 しかし、さらに眼を近づけてみると、紛れもなく重ねられた紙なのだ。高揚させられたところで、すとんと落とされる爽快感。これもまた、眼福と言うべきか。

(SCAI THE BATHHOUSE)

 

2011年5月5日 「田窪恭治展 風景芸術

 フランス・ノルマンディーにおける「林檎の礼拝堂」プロジェクトや、金刀比羅宮再生プロジェクトで知られる美術家田窪恭治の展覧会。

 礼拝堂プロジェクト以来一貫している作家の姿勢は、周囲の自然を初めとする事物を「取り込む」のでなく、逆に自らがその場所に「入り込む」ことだと感じた。

 80年代終わりに田窪は、都心の解体される家屋を舞台としたプロジェクトに取り組んだ。このプロジェクトを「絶対現場」と題したところに、彼の基本姿勢が表明されている。田窪にとって、創作の場は自分自身が没入していく「現場」なのである。こういった創作姿勢の原点は、おそらく、さらに以前、多摩美大在学中だった70年代に行なっていたパフォーマンス・アートにあるのだろう。

 礼拝堂における制作で、彼は壁面に幾層にも塗り重ねた顔料を掻き落とす手法によって林檎を描いた。モチーフの林檎は礼拝堂の周囲に自生するものである。この「掻き落とす」という技法に、土地の古層にあるものまでを可視化しようという想いが込められている。そして、描く道具として田窪が選んだのは、地元の職人が使う鑿だった。屋根の補修に用いた色ガラスも、現地の職人に制作してもらっている。出来うる限り、その土地独自の事物の中で完結させることを目指しているのだ。

 今回展示された、礼拝堂の東京バージョンでは、堂を囲む敷地に鋳物のタイルが敷きつめられている。これはノルマンディーで果たせなかった構想である。鋳物は堅固ながら、温かみをもつ素材である。そして、表面に錆びが浮き出すことで、あたかも土に還っていくかのような風合いが生まれる。こういった仕掛けに、その現場に自らが身を投じ、場と一体化しつつ創作を行おうという明確な意思が投影されている。

 現在進行中の金刀比羅宮再生においても、同じ姿勢が貫かれている。書院、茶所に描かれる圧倒的な数の椿の花。これも周囲に自生する樹である。

 礼拝堂、金刀比羅宮、いずれの仕事も、「再生」が主題である。林檎も、椿も、花が咲き、散り、実をつけ、という周期を繰り返す。そのまま「再生」を象徴する存在である。

 「再生」とはまた、当該の事物の本来の姿(の痕跡)を探し当て、新たに刻印し直す作業と言える。田窪が70年代終わりから取り組んでいた、廃材による造形にも、人間の手形が刻まれたり、降りおろされた斧が突き刺さっていたりと、人の行為の痕跡を記録するモチーフがみられる。

 同じ場所で生命を繋いできた木々、同じ土地で親から子、子から孫へと受け継がれてきた事物・行為。その中にはすでに、わずかな痕跡を残して忘れられてしまったものもあるだろう。このように受け継がれる行為の典型が信仰、すなわち祈りの儀式である。田窪の携わってきた礼拝堂、金刀比羅宮という二つの現場がいずれも信仰の場であることは偶然ではない。

 田窪の仕事はまぎれもなく創作行為である。しかし、それは、現場に自分自身の名を刻むためのものではないように思われる。その場所に堆積した時、さまざまな営み、そして想い。そうしたことどもを、丁寧に、時間をかけてすくいだし、見えるかたちにする。彼の唯一の目的はそこにある。このことは、礼拝堂の仕事にとりかかるに際して村との間で取り交わした契約書に端的に表われている。すなわち、村が礼拝堂の「全所有権」を有し、田窪は「作品制作の枠組み」として礼拝堂を使用するのみで、作品完成後も村に対しては「経済的補償を一切期待しない」と明記されているという(契約書内容については池内紀「天がける大天狗−田窪恭治のこと」(図録所載)を参照した)。ここで美術家が自身に引き受けている役割は、表現者というより、媒介者に近い。けれども、言うまでもなく、これらの作品群において展開されているのは紛れもなく田窪恭治にしか作れない世界だ。

 制作中の金刀比羅宮の襖絵、そして礼拝堂・東京バージョンを前に、彼の手がけた「現場」を、この眼で体験したいとの思いを強くした。

(東京都現代美術館)

 

2011年5月3日 「オペラシアターこんにゃく座 オペラ「変身」

 山元清多氏追悼公演。

 舞台は、カフカの小説を土台に、書簡と日記の断片も織り交ぜた山元氏の台本によって進行する。社会に搾取される人間の姿、家族のありかたなど、深い内省を求められる主題が絡み合う。今回、改めて考えさせられたのは、自分の身近な存在に“異化”が生じた場合の人間の心性である。「家族なのだから」と言える余裕がなくなったとき、本当に不幸なことだが、“厄介者”としか捉えることができなくなったとき。身近な存在であるにもかかわらず、否、そうであるがゆえに、徹底的な排斥が始まる。これは、人間が構成する社会にあっては、時空を超えた普遍性を有することがらだろう。終曲の「出発」に、人間の性(さが)の哀しみが滲む。

 決して短くはない作品を一気に観せるのは林光氏の音楽の力である。一貫して20世紀初頭の空気感を巧みに表現し、一音一音が深く吟味されていながら、親しみやすい楽想が繰り広げられる。聴くほどに味わいの増す作品。

 主演の大石哲史、磐石の安定感である。妹役の青木美佐子は声につよさと深みが増している。久しぶりに川鍋節雄の歌が聴けて嬉しかった。岡原真弓もいよいよ妖艶。

 終演後の林光×萩京子の対談では、この作品の生まれた経緯が語られ、興味深かった。

 引き続き、山元氏作詞作品によるミニ・コンサート。座員総出演だが、女声陣が元気なのに比して、依然男声、ことに低音が貧弱なのが残念。客演した黒テント・稲葉良子は山元氏のパートナー、聴き手の内面に深く激しく斬り込んでくる歌、圧倒的な存在感。「あらしの歌」の梅村博美が伸長著しかった。経験を積むにつれ、より先鋭さを増す。本当に力のある人はそうなのだろう。

(渋谷区文化総合センター大和田・さくらホール)

 

2011年1月23日 「パパ・タラフマラの白雪姫

 作・演出・振付の小池博史氏がプログラム・ノートに記している「本来、モノの見え方はさまざまです。聞え方もそれぞれです」ということばに本作の最も大切なメッセージが籠められていると思った。

 

 あまりにも有名な物語を扱いつつ、善悪、好悪、美醜、幸・不幸、敵・味方といった二項対立が基盤を失い、崩れ去っていくさまが描かれている、とみた。小人や追っ手の狩人までをもたぶらかす白雪姫。純潔・無垢と見えていた彼女が悪女の本性をあらわし、終幕の「乱痴気騒ぎ」のヒロインへと変容していく様子は、ベルリオーズの「幻想」の筋立てさえ髣髴とさせる。しかし、彼女の行動は、本人にしてみれば生きていくための方便、さらには闘いなのである。見方によって受け止め方は逆転する。ただし、白雪姫に純潔・無垢な像を期待するのは、既成の描き方にとらわれているからにほかならない。

 

  たとえば「魔笛」における夜の女王の二面性はしばしば論じられるところである。が、リンゴの皮を剥くように、既成の枠を取り去ってみると、「白雪姫」のような有名な物語の内部にも無数の可能世界が含まれている。そんなことを感じながら楽しむことができた。

 

 最小人数に絞られた出演者たちが切れのよい踊りを見せ、歌を聞かせる。音楽も、一つの事物の二面性・多層性を象徴するかのように、静かな層の上に、誇張された明るさの層が重なる場面がしばしば見られ、興味深かった。

 

 来年、パパ・タラフマラは30周年を迎えるという。わたくし自身は不真面目な観衆で、以前公演を観て以来10年以上経ってしまった。追いかけてこなかったことが惜しまれる。今後は見逃すまい。

(池袋 あうるすぽっと)

 

2011年1月22日 映画「ハーブ・アンド・ドロシー

 ニューヨークで活動する若い美術家の作品を、長い時間をかけて少しずつ収集したハーバート&ドロシー・ヴォーゲル夫妻。二人は3700点余りに及ぶコレクションをそっくりナショナル・ギャラリーに寄贈した。そして、その後集めたコレクションに囲まれて生活しており、それらは二人が亡くなった後、同じようにギャラリーに寄付されることになっているという。そんなヴォーゲル夫妻のドキュメンタリー映画。

 二人の関心は作品を集めることそのものにはなかったのだと思う。ヴォーゲル夫妻は、ある作家が気に入ると、すべての作品を観て吟味し、最も好きなものを買う。それも1点のみでなく、何点も。彼らは、作家が何を感じ、どう考えたか、創作の過程をつぶさに知りたかったのだ。

 

 夫妻は若い頃、仕事の傍ら美術大学のクラスに通い、美術家を目指していたという。おそらく、創作への想いは極めて強く、稀代のコレクターとして世に認められた今も変わらないのだろう。

 

 しかし、二人の姿勢は、衒学的なものでは決してない。作品を、作家を、実に温かくいとおしむ眼差しで見守り続ける。一緒に暮らす猫や亀に対するのと同じように。コレクションをギャラリーに寄贈して、まるで我が子を大学まで通わせたように(夫妻には残念ながら子どもがいない)、ほっとしたと語る姿が印象的だった。

(渋谷 イメージフォーラム・シアター)

 

2010年11月6日 「ブラヴィッシーモ!」

 東京ディズニーシー(TDS)の夜の水上ショー「ブラヴィッシーモ!」がまもなく(2010年11月13日)公演終了のため、舞浜へ足を運びました。

 2004年7月から始まったこのショー、開始直後にパークに行き、ずいぶん早い時間からから場所とりをして鑑賞したことを思い出します。それ以来、少なくとも20回以上は観たと思います。

 パークが海辺に位置しているにもかかわらず、風に滅法弱いショーで、しばしば「風バージョン」(パイロ(花火)カット)に変更され、ひどい場合は中止や途中打ち切りの憂き目をみることもありました。実際、タイミングの悪いわたくしは3回に1回ぐらいしか完全バージョンに当たりませんでした。また、仕掛けが大がかりな割に、ストーリーはおめでたいまでに単純で深みというものがありません。

 しかし、開始当初「鷄ガラ」などとそしられていた火の精プロメテオも、ショー内容の改訂を経て、ダイナミックな動きを楽しめるようになりました。無駄のない造形の水の精ベリッシー、そして何より、ギャヴィン・グリーナウェイによる音楽の素晴らしさ。これらの要素が一体となって、迫力のみならず、格調を備えたショーを構成していたと思います。

 実は、わたくし、つらい時、落ち込んだ時、どれほどこのショーに力づけてもらったかわかりません。風バージョンであろうと何であろうと、「また観に来よう」という気持ちにさせてくれたのです。

 今回は、初めて鑑賞した時と同じリドアイルで、完全バージョンを観る幸せに恵まれました。感無量です。

 大好きなショーが終わってしまうのは本当に残念です(この喪失感は「ポルト・パラディーソ・ウォーター・カーニバル」が終わったとき以上です)。ですが、わたくしはTDSという場所そのものがとても気に入っているので、これからもまた足を運ぶことになるでしょう。

 来年、TDSは開園10周年を迎え、それに合わせて新しい夜の水上ショー「ファンタズミック!」が始まるとのこと。本家ディズニーランドで行なわれているもののアレンジ版らしく、TDSの完全なオリジナルではないのが少し残念ですが、さらにアトラクションも増えるそうですし、発展し続けるパークに期待したいです。

 

2010年10月31日 TOKYO DESIGNERS WEEK 2010


 この催しは今回で25回目を迎えるという。「くらしと環境のデザイン展」との副題がある。さまざまな企業、団体、個人が出展し、それぞれ環境に配慮した製品を展示している。

 展示の中には廃棄物のリサイクル、リユースを積極的に行なうというものが目立った。こうした廃棄物の再利用は、結局のところ、大量生産をやむない行為として容認することを前提としている。廃棄物や廃材の再利用の意義はもちろん否定できないが、そこにとどまっていては、真に持続可能な生産プロセスを構築することはできないだろう。

 会場の一角で、「ジャラパゴス展」と題して現代アート展が行なわれていた。「ジャラパゴス」とは、「ジャパン」と、産業界における「ガラパゴス化」(「技術やサービスなどが日本市場で独自の進化を遂げて"世界標準"からかけ離れてしまう現象」)を合わせた造語であるという。ここで特に目が留まったのは鴻池朋子の作品(「Landmark−再びそこへ戻るための」(2008))。ゆっくりと回転する妊婦の像の頭部は頭蓋骨になっている。像の全身に埋め込まれた小さい鏡が照明を反射して煌めき、鑑賞者の眼を射る。そして、周囲の黒い壁面には無数の小さい光の輪が映る。まるで精子か卵子のようだ。この作品では、生まれながらにして死をはらむ人間―生物の宿命が描かれていると感じた。像は滅びを内包した誕生を(皮肉にではなく)祝福するかのように両手を大きく広げている。

 この作品などは、現代社会にとって不可避である大量生産について考えるヒントを与えるのではないか。たとえば、生産された瞬間から崩壊と自然への回帰をプログラムされた製品など。耳にしたことはあるように思うが、現時点ではまださほど流通していないのではないか。

 人は親族を最後まで見届けるのが普通だ。これと同様、モノ、特に大量に作り出される(工業)製品についても、その最後を「看取る」ことを、現代の生産者・消費者は求められている。自分たちが作り出し、そして使ってきたモノがどのような最後を遂げるのかをしっかりと見極めること、この視点なくしては持続可能性を追求することは難しい。ジャラパゴス展の宮永愛子の作品「はるかの眠る舟」(2009)は、ナフタレンで作られたウサギのぬいぐるみや積み木が箱の中に閉じ込められている。時間の経過と共に形を失っていく素材を用いた作品である。この作品にも、「モノの最後」について考えるきっかけが含まれているように思った。

 アート展示は今回初めて企画されたとのことだが、主にデザインに関心を寄せる観衆の反応は意外に冷めているようで、あくまで本体に付随する催しにとどまっている印象があった。企画にあたったギャラリー(ミズマアートギャラリー)側には様々な思いがあったのではと推察されるが、メッセージをより明確に伝える仕掛けがあってもよかった。

 デザインは必ず何らかの目的に付随するものである。まず、持ちやすさ、収納のしやすさといった実用的な目的があり、その上で何らかの美観を呈することがデザインの基本的要素の一つだろう。それゆえ、作り手の名前や顔は必ずしも前面に出てくる必要がない。対して、アートは表現行為そのものである。したがって、作品から作者の顔が切り離されることはない。このあたりに、アート作品に対する温度差が起因するのかもしれない。デザインとアートの関係をどうとらえるか。引き続き時間をかけて考えてみたい。

(明治神宮外苑絵画館前)

 

2010年10月24日 モーリス・ユトリロ展

 すべて日本初公開となる約90点による展覧会。

 

 ユトリロは若くして飲酒癖が始まり、精神病院に収容された。絵画は独学で、治療のために勧められて絵筆を執るようになったという。

 彼はモンマルトルを中心にひたすら街を描く。建物のディテールには拘泥しない。前景の建物のみ律義に描き込むことはあるが、その場合も後方の町並みは大雑把にしか描かない。建物に囲まれた街区、そこに立ち上る空気、肌触り、そして匂いを描きとろうとした。

 対照的に教会を描くときだけはあたかもレンズの焦点がきりりと合ったかのように細部まで丁寧に描く。酒から逃れることのできない、度しがたい存在である自分の浄化を求めているようだ。

 ユトリロは最後まで街区を描くことにこだわった。彼は、20〜30年代は自分より年下の継父、その後は妻によってほぼ軟禁に等しい状況におかれ、制作を強いられたという。そして、その中で彼の心もまた、自らの心象風景の中に閉じ込められたのだ。

 画面奥まで連なる町並み、本来は人の往来のさかんなはずの通りには人影が全くないか、あっても記号化されてしまう。モンマルトルをはじめとする街区を描くユトリロの筆致は、初期の暗いトーンから年齢とともに、つまり生活の安定とともに穏やかなものに変化していく。

 だが、街区という空間は彼自身を幽閉する牢獄だったのではないか。そしてユトリロ自身、その牢獄から進んで外の世界へ出て行こうとすることはついになかった。少年時代に胸一杯に吸い込んだ街の「温気」(森村泰昌氏は自分の故郷・大阪のもつ「体温」をこう評した)を、ユトリロは亡くなるまで捨て去ることができなかったのかもしれない。

(豊橋市美術博物館)

 

2010年10月23日 「ほしいも学校」完成記念発表会&トークショー

 わたくしは干し芋が大好物である。スーパーなどで見かけると、必ず買い求めてしまう。食感、甘み、そして食したあとの適度な満足感。どれをとってもわたくし好みなのである。

 今回のイベントは、デザイナー佐藤卓氏が、茨城県ひたちなか市・東海村の人たちと共同で開発した、干し芋「ほしいも学校」の完成記念の催しである。
前半は佐藤卓氏によるプレゼンテーション、後半は実際の作業に携わった地元関係者も加わってのトーク。

 佐藤氏は、2006年に水戸芸術館で展覧会を開いた縁で、地元から商品開発を要請されたという。100年にわたって作られている干し芋を使っての商品開発をするに当たり、佐藤氏は、干し芋というものを徹底的に知ることから始めた。なぜこういう色をしているのか、あの食感はなぜ生まれるか、干し芋の表面をおおっている白い粉は何か、等々。地元の生産者にとってはあまりに当たり前のことで、意識されることすらないことども。佐藤氏の問いかけにすらすらとは答えることができず、生産者は自分たちの仕事について無自覚であったことに気づかされたという。

 

干し芋は「現代的」とされる品物とは全く逆の属性をもつ。田舎くさい、あか抜けない、かっこ悪い、不細工、…。佐藤氏はそこにこそ新しさを見出したと語る。

 佐藤氏は動きが実に軽快である。生産者との最初のミーティングでいきなり「ほしいも学校」で行きましょう、とひらめく。細かいことが決まるはるか以前にダミーを作ってしまう。早い段階からメディアを巻き込み、ミーティングにライターを同席させて文章化させる、といった具合。

 長く続いてきた産業だけに、新しいことに対する拒絶反応があり、プロジェクトを進めるに当たっては多大な苦労があったという。


 近年、中国に拠点を設けることで、干し芋を安価に生産することも可能になった。しかし、土壌が違い、風土が違い、また、生産に携わる人が違う。日本人の感性に真に訴えるものは作れないのだという。

 また、後継者を確保していくことが大きな問題だそうである。今回のプロジェクトをきっかけに若い人にも興味を持ってほしいと生産者は語る。これまで100年続けてきたことを、これからさらに100年続けていくにはどうすべきか。そういう視点が求められている。

 「ほしいも学校」はマーケティングの実践例だが、話を聞きながら、神社の運営にとってもヒントになることがらがたくさん含まれていると感じた。もちろん、神明奉仕は商売ではない。授与品も商品ではない。ここで注意すべきは、佐藤氏が、売ろうとする商品を徹底的に知ることの大事さを語っていたことだ。お宮を訪れる人が何を求めているか、どんなことを期待しているのか、徹底的に探求すること。これは神社を守っていく上で非常に大切なポイントである。また、継承ということも重い課題だ。どうやって若い世代に足を運んでもらうのか。「ほしいも学校」に学ぶことは多い。

(青山ブックセンター・本店)

 

2010年10月17日 エルデーディ弦楽四重奏団演奏会

シューベルト/弦楽四重奏曲第14番ニ短調D.810「死と乙女」
 
 第1楽章冒頭の和音でいきなり違和感を感じた。トップノートが聴こえないのだ。この点、リピート後はいくぶん解消されたが、演奏はひたすら平坦で、起伏がない。ダイナミクスも表情も二種類ぐらいずつしかない。内声が不明瞭なところがしばしばあったが、よく言えば穏やかな演奏で、破綻がない(ただし、第1ヴァイオリンは時折肝心なところで音程がはずれ、弾き込んでいないのではと感じられた)。だが、意地悪な言い方をすれば、それしか取り柄がない。体温が感じられない、言わば「低血圧」な演奏。広漠たる荒れ野がどこまでも続くようだった。

シューマン/弦楽四重奏曲第3番イ長調op.41-3

 後半に入って、体温が上がってくることを期待したのだが、この曲でも演奏は真ったいら。確かに穏やかなアプローチになじむ音楽ではあったが、曲の本質を捉えた演奏なのだろうかと疑問を覚えた。

 当初の予定から曲順が変更になり、「死と乙女」が先に演奏された。この作品は非常に高いテンションを要求される音楽である。本来、奏者の身体が充分温まり、会場のコンディションになじんだところで演奏すべき曲だろう。何ゆえに演奏順が変更されたのか理解に苦しむ。あるいは、もう一曲のシューマンが長調のため、短調の世界が組み立てにくくなるからかとも推測したが、上述の通り、後半でも演奏のスタイルが変わるわけでもなく、変更の理由は最後までわからずじまいだった。

(第一生命ホール)

 

2010年10月15日 読売日本交響楽団 スクロヴァチェフスキ特別演奏会

シューベルト/交響曲第7番ロ短調「未完成」
 第1楽章はテンポが速め。低弦の非常に柔らかい響きで始まった。開始後しばらくは、この曲はこんなに古典的な作品だったかと思わせるような響きが続くのだが、展開部に入って、後半のブルックナーを予感させるロマン派的な響きを聴かせる。聴き慣れているはずの曲から、様々な表情を引き出すマエストロの手腕はさすがである。第1主題でのオーボエ、クラリネットのバランスが(特にリピート後)絶妙だった。第2主題のシンコペーションによる伴奏など、細部にまで神経がいきわたっており、さすがだと思う。第2楽章も比較的速めのテンポ。終結部近く、ヴァイオリンの美しい響きが印象的。ないものねだりかもしれないが、この楽章は、もう少しで狂気に至りそうな「ものすごさ」が表現されるとさらによかった。

ブルックナー/交響曲第7番ホ長調
 基本的に弦楽器を主体とした音楽の組み立てだった。いや、正確には、音楽そのものがそういう構造をなしているのだ。それゆえ、読売日響の弦楽器の高い機動性が際立った。たとえば、第1楽章の息の長い第1主題は弾きぶりがシューベルトとは全く違う。また、第1ヴァイオリンがオブリガートに回り、第2ヴァイオリン、ヴィオラなどの内声がメロディーを受けもつ部分、音色にもう少し艶があればなおよいが、音の粒が「立って」おり、音楽の形が明確に示された。

 いつもながら、スクロヴァチェフスキの音楽作りは緻密で、考え抜かれているが、決して理が勝つことなく、聴く喜びを与えてくれる。たとえば、第1楽章の終結部直前の、ゆるやかにクライマックスに達し、ふたたび収まっていく部分では、往々にして前面に立ちすぎるティンパニを極端に抑え、ハーモニーを活かす。第2楽章はアダージョながら、音楽が絶えず前に前にと進み、淀むことがない。ダイナミクスに細やかに段階が設けられており、音楽の向かっていく先も常に明確に見定められている。だから、奏者も聴衆もどんどん引き込まれ、音楽世界の奥深くへと分け入っていくことができる。

 弦楽器はミスター・Sの薫陶がきちんと活きており、大きく成長したのだろうと察せられた。


 半面、管楽器には手痛いミスが目立った。フルート、クラリネットはソロは素晴らしかったが、アンサンブルの音程があまりに悪い。トランペットは全体に不調なようで、気の毒ではあったけれども、弱奏の肝心なソロでしばしば音をはずしていた。第3楽章の強奏部分はやや上品さを欠く部分もあり、合いの手のリズムも不正確。ワーグナー・チューバのパート・ソロ、静かな部分だけに出だしのアタックミスが痛い。旋律線が埋もれがちだったのも惜しまれる。また、ブレスの取りかたにももうひと工夫ほしかった。

 この曲は弦楽器主体に構成されている音楽だということがよくわかったのは収穫だったが、上に挙げたとおり、管楽器に、瑕僅というにはあまりに大きな傷が多かった。また、オーケストラ全体としても、前半の二つの楽章で精力を使い果たしたのか、後半はやや粗い印象をうけた。そのせいで「残念」な印象のほうが強く残ってしまった。弦楽器が素晴らしい演奏を繰り広げていただけに、本当に惜しい。

 

[※明日も同じプログラムが予定されており、交替で家人が聴きにまいります。盛り返しに期待します。]

(東京芸術劇場 大ホール)

 

2010年10月11日 映画「幻風景」上映会

 「2010年3月、鎌倉・雪ノ下の古民家が取り壊された」(フライヤーより)。映画の前半では、最後の住み手となった美術作家・景山健氏一家の日常、引越し前の一週間、自宅を開放していとなんだ古い家の「お通夜」(家を訪れた人たちへのインタビュー)の模様が描かれる。後半は同年3月に倒れた鶴岡八幡宮の大銀杏についての、地元の人たちへのインタビューを中心に構成されている。

 前半の主人公は何と言っても築約80年という古民家である。職人が吹いて作ったという板ガラス、欄間の細かい細工の美しさ。庭木にやってくる鳥のかわいらしいこと。


後半ではトイカメラで撮ったようなショットも織り込まれ、現実と幻とが交錯する。

 前半と後半のそれぞれに、風景を見つめる「眼」の持ち主が配される。

映画の前半では、景山家の息子さん・豊作君のあどけない表情やしぐさが愛らしい。この古い民家で物心がついた彼の「眼」にとっては、この家こそが「原風景」である。

一方、後半では、変わりゆく鎌倉を外から見る「眼」として若い女性(太田緑ロランス)が登場する。彼女は古民家のあった場所を訪れ、そこで、すでに存在しない家の姿、すなわち「幻風景」をみる。

 映画の終わり、前・後半の二つのストーリーが一つに収束する場面が美しい。

 「文化財にもならない」、名もない古民家の取り壊しは、鎌倉の長い歴史の中ではごく小さな出来事である。他方、大銀杏が倒れたことは比較的大きな事件と言えよう。しかし、事の大小を問わず、この土地で起きたことは歴史のページに綴じ込まれていく。

 古の都も、時の流れの中で姿が変貌していくことは止めようがない。映画は観る者に問いかける。失われていく風景にどう向き合うべきなのか。

 映画の中で、農家、鮮魚店、銭湯の主などなど、鎌倉に暮らす人々が登場し、自分にとっての鎌倉を語る。その話がどれも面白い。中でも、山崎・谷戸のボランティアの女性の話が印象的である。いわく、里山は手入れをしなければ崩壊する。現在の谷戸は、樹木が繁茂しすぎて山の斜面が持ちこたえられなくなっており、「災害を待っている」状態だという。

 街の失われゆく風景についても、同じことが言えるのではないか。

 あたりまえだった町の景色が消え去ろうとするとき、しかも、もはやそれを止めるすべがないとき、風景を知る者にできることはその姿を次の世代に伝えていくことである。ここで肝要なのは、単に「記録」を残すのではなく、生きた、切れば血の出るような「記憶」を手渡すことではないだろうか。緑を残そうとする際に単純にそのまま放置するのでは意味がないのと並行的である。

他方、「記憶」を手渡される者は受け取ったままにしてはならない。まず、自分が、土地の歴史の最先端に立っていることを自覚する必要がある。これは、古都鎌倉ゆえに際立つことではあるが、場所が変わっても同様だろう。そして、記憶を受け継ぐ中で、自らの考え方、ものの感じ方、場合によっては生き方までをも見つめなおさなければならない。あたかも里山に手入れをするかのように。その過程の中でこそ、記憶を内化することができる。景山氏の「お通夜」、さらに、その様子を映画を通じて広く共有しようとすること自体が記憶を内化するための手だての一つである。

 このようにして世代から世代へと手渡されていく、生きた記憶の集積こそが歴史となる。

 この映画は、巡回上映をしつつ手を入れており、未完結だという。できることならもう一度観て味わいたい。

(鎌倉市生涯学習センター・ホール)

 

2010年10月8日 「シャガール ロシア・アヴァンギャルドとの出会い」

 ポンピドー・センターが所蔵するシャガールのコレクションを中心とした展覧会である。

 本展の目玉は1930年代以降の、いかにもシャガール「らしい」作品群である。同時代の、マレーヴィチ、ゴンチャローワ、ラリオーノフなどロシア・アヴァンギャルドの作家の作品も展示されていたが、残念ながらその時代を体感させてくれるような構成ではなく、両者を有機的に結びつけることに成功しているとは言えなかった。

 とはいえ、シャガールの魅力を十分に味わえ、また、彼の心象風景の一端も垣間見ることのできる、興味ぶかい展示であった。

 ロシア革命直後、ふるさとの町ヴィテブスクで運営を任された美術学校にシャガールは先鋭的な教師を迎えようと考え、マレーヴィチを招聘した。だが、学生はマレーヴィチのカリスマ性に魅了され、シャガールから離れていってしまう。このことで、シャガールは故郷を離れざるを得なくなる。

マレーヴィチの作品の中から選ばれた建築モデル「アルヒテクトン」を興味ぶかく観た。ここで彼は、単純な形のみで極めて複雑かつ美しい造形を成し遂げた。今回は、オランダの現代作家によるリプロダクション数点のみの出展であったが、これだけでも、シャガールとは芸術の方向性を全く異にする、強烈な個性の持ち主だということが明確に見て取れる。

 シャガールの故郷ヴィテブスクは現在のベラルーシにあたる地域に位置する。彼はこの町のユダヤ人居住区に生まれている。帝政ロシアの生まれではあるが、ユダヤ人であり、生まれながら「よそ者」である。加えて、のちに上記の事情で故郷を失うこととなる。二重の「ディアスポラ」と言える。

シャガールの作品には故郷ヴィテブスクがたびたび描かれる。その画面からはふるさとの「土」のかおりが漂う。帰りたい、だが、帰ることができない。望郷の念は断ち難い。「ディアスポラ」として当然の心情であったろう。

しかし、暗い画面であっても、青をはじめとする色の美しさによって、陰鬱な印象は皆無である。むしろ、夢幻的な画面が観る者を魅了する。たとえば、1911年の「ロシアとロバとその他のものに」などはフォーヴィズム的色彩を取り入れているとされるが、色使いはあくまでシャガール独自のものであり、攻撃的な色調にならない。また、1950年代にパリで描かれた「日曜日」なども、明るい色調ながら落ち着いた印象である。

 なぜ彼の絵は観る者の心を捉えるのか。一つのヒントは、しばしば画面に現われる、火のともった蝋燭にあると感じた。1930年代に着手された「赤い馬」、亡き妻ベラを追想する1945年の「彼女を巡って」、1945年の「村の魂」などがその例である。蝋燭の火は強い風が吹けば消えてしまうはかなさをもつ。だが、ともっている間は周囲を明るく照らし、手をかざせば暖かい。蝋燭の灯りは故郷を想うときの心の温もりを象徴しているのではないか。郷愁がもたらすほのかな温かみが鑑賞者の心をも温めてくれる。シャガールの絵の魅力の一端がここにあるように思う。

 マレーヴィチとの反目を経たシャガールは自らを前衛芸術家とは呼ばなかったのではないかと想像する。しかし、シャガールの描く画面には「今・ここ」を離れた、時間的多層性(現在と過去の共存)、空間的多層性(制作時点での現在地と、遠く離れた故郷との共存)がみられる。

同様の特徴はプリミティブ・アートにもみられるが、シャガールは現代的な感覚から、時空間の広がりをとらえていた。たとえば、前述の「彼女を巡って」では故郷ヴィテブスクが水晶球の中に映し出されている。つまり、複数の層を意図的に一つの画面に描き出している。また、1960年代の「虹」では「今いる場所」であるパリのエッフェル塔が奇妙にぐにゃりと曲がって描かれる。これもまた水晶球の中の風景のようだ。この絵でシャガールは故郷にいるロバに乗っている。つまり、作者は故郷の町からパリを眺めているのである。眺める自分と眺められる光景とが分化している。これは古代にはない、現代的な発想であろう。

 シャガールの絵にはしばしば宙を飛ぶ人物や動物が現われる。彼の絵を特徴付けるモチーフである。素朴に考えれば、このような「飛翔」は鳥のような自由への憧れととれる。実際、前述の「虹」など巨大な鳥が登場する絵もある。では、なぜ「飛翔」への憧れを抱くのか。表層的には、空を自由に舞いたい(そして、故郷へ戻りたい)という願望の表現にほかならないだろう。そして、その背後には、「今・ここ」を離れて自由な視点を得ようという意図があるのではないか。このことが端的に現われた作品として、30年代から40年代にかけて描いた「家族の顕現」がある。この絵でシャガールはヴィテブスクを見下ろす位置にいる。そして、画家が振り返ると、亡き両親など親しい人々が時を超えて現われるのだ。また、前述の「虹」の画面に登場する画家は浮遊してはいない。だが、「今」いるパリを離れ、故郷の町でロバに乗っているのであった。このように、自分の視点を「今・ここ」から切り離すための装置として「飛翔」があったと考えられるのではないだろうか。

 展覧会全体の構成としては、もう一歩詰めるべき点があったと感じたが、シャガールの絵がもつ魅力、その秘密の一端を覗くことができたように思う。

(東京藝術大学大学美術館)

 

2010年10月8日 「武満徹80歳バースデー・コンサート」

 作曲家武満徹の生誕80周年を祝うコンサート。武満にゆかりの深い二人の音楽家、オリヴァー・ナッセン(指揮)、ピーター・ゼルキン(ピアノ)が登場した。オーケストラは東京フィルハーモニー交響楽団。

ウェーベルン:管弦楽のための6つの小品 op.6(1928年版)
 極端に音数が少ないが、一音一音に豊かな表情があり、深い表現力をたたえた作品。かつてオリジナル版・四管編成の迫力に圧倒されたことがあるが、今宵のように引き締まった演奏を聴くと二管の潔さが際立つ。

ナッセン:ヤンダー城への道 op.21a〜ファンタジーオペラ『ヒグレッティ・ピグレッティ・ポップ!』からのオーケストラのためのポプリ
 絵本作家モーリス・センダックの愛犬、ジェニーの死に際し、「ジェニーを天国へ送る作品」として書かれた作品だという。ごく短いが、起伏に満ち、聴き手をそらさない。ナッセンがすぐれたオペラ作家である証であろう。改めてまじめに聴いてみたい。なお、「ヤンダー"yonder"」とは「かなた」の意。「彼岸」のことか。

武満徹:リヴァラン
 ピアノとオーケストラのための作。ソロをつとめたピーター・ゼルキンに献呈されている。ゼルキンは武満とは長年にわたって親交があっただけに、タケミツ・サウンドを知り尽くしている。また、ナッセンも、武満らしい響きを引き出すすべを心得ており、安心して聴くことができた。ただし、作品としては一種「模索の時代」にあったのかとも思われ、音楽の向かう方向性が今ひとつ明確でない。70年代までの作品のほうが−ことにオーケストラ作品については−向かっていく先がより明らかだったという気がする。終結部、ほっとため息のように奏でられるピアノの和音は味わい深く響いた。

武満徹:アステリズム
 休憩前の「リヴァラン」(1984)よりも、1968年のこの曲のほうが作品の完成度としてははるかに高い。音の密度、緊張感が段違いである。例の「ものすごいクレッシェンド」(村上龍)も、豊かな響きを味わうことができた。ソロもオーケストラも気迫のこもった一流の演奏を披露した。

ドビュッシー:聖セバスティアンの殉教−交響的断章
 4時間にも及ぶ長大な神秘劇の伴奏音楽として書かれた作品の中から、「かなめ」の部分を抜き出したのがこの「交響的断章」だという。たしかに、音楽のみの「無言劇」でストーリーは十分に追うことができる。日本音階なども顔を出し、全体に東洋趣味が漂う。劇的な場面はあるが、全体に静かな印象の音楽である。東フィルの弦楽器の音の柔らかさ・美しさが印象的だった。

 武満のエッセイで、「ノヴェンバー・ステップス」を作曲中、「牧神の午後への前奏曲」の自筆譜(たしかピアノ版)のコピーを手元に置いていた、という一節があった。武満は彼にしか書けない音楽の世界を広く深く切り拓いた。その手本となったドビュッシー、それも聖人の殉教をテーマとした音楽を捧げることは、何よりのバースデー・プレゼントであったと思う。

 一曲ごと、最後の音の余韻を、遠くへ行ってしまった武満に届けようとするかのように、ナッセンもゼルキンも、そしてオーケストラのメンバーもしばし微動だにしない。聴衆にもその気持ちが伝わり、静寂を一体となって味わった。

 武満徹の不在を確認することは寂しく、つらい作業だ。だが、彼が残した音楽を今後へ伝えること、さらには武満を目標とし、超えていくこと、これは残された者に−演奏者のみならず聴衆にも−託された務めである。節目となる年の、意義深いコンサートだった。

(東京オペラシティ・コンサートホール・タケミツ・メモリアル)

 

2010年10月3日 「建築家 白井晟一 精神と空間」

(※建築には疎く、だいぶ前にワタリウム美術館でブルーノ・タウトを観た程度です。思い込み・勘違いなどあるのではと案じられますが、ご寛恕ください)

 建築家自身による平面図、完成した建物の写真、新たに制作された建物の模型、書、さらには何人かの美術家によるオマージュによる構成。計画のみに終わった(実現の意図もなかったかと思われる)「原爆堂」関連の資料が展示の中央に据えられている。

 偶然なのかもしれないが、平屋もしくは低層の作品が目立った。秋の宮村役場の模型などを見て、直観的に感じたのは、「風通しのよさ」である。ここで言いたいのは、もちろん、実際の換気のよさではない。より観念的な意味あいでの、「気」のようなものの流れのよさをこう呼んでみた。

 白井が気学、風水学などを意識していたとは考えにくい。しかし、その土地の自然、そこに暮らす人々の営みを含めた風土、さらには土地のもつ霊的な作用を感じ取り、それに寄り添うようにして建築を構想していたのではないかと想像する。実際、この村役場建築に当たっても、地元の人々に対する温かい眼差しが自著のエッセイにつづられている。

 秋の宮村役場などは、平面図を見ても、模型を見ても、実に風通しがよさそうな印象を強く受ける。「気」が通るとでもいうのだろうか、空気が淀まないつくりだと感じられるのである。

 会場中央に置かれた「原爆堂」の展示を見ても、やはり、「風通しのよさ」が感じ取れる。本館(翼のような形状で、展示室の役目を持つ。やはり平面である)から、池の中に立つ堂をのぞむと、一種のヴィスタ(vista)的な効果があり、互いに独立した建物の間に濃密な、しかし互いに独立しあう関係性が生じている。

 親和銀行のための一連の仕事は内部の写真で紹介されている。時代的な要素によるのかとも思うが、天井の高さが抑えられている。だが、それは圧迫感ではなく、そこに集う人の間に一種の親近感(intimacy)を生んでいる。わたくし自身が実際に訪れたことがある白井作品は渋谷の松濤美術館のみであるが、建物の感触を思い起こしてみると、やはりそのような intimacy というか、居心地のよさを感じたことが思い出される。この感触も、やはり「気」のようなもののもたらすところではないだろうか。

 白井は若くしてドイツに留学し、哲学を学んでいる。遊学後、日本を「再発見」するという事例は多くあるのだろうが、白井の場合は単純な(と言っては失礼だが)日本、あるいは東洋への回帰といったものではなく、精神的にもっと深いところでの「悟り」だったのではないかと感じた。

(群馬県立近代美術館)

 

2010年10月1日 『決定的瞬間』

 アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真集に『決定的瞬間』がある(フランス語の原題は「逃げ去る映像」だという)。

 写真でも絵画でも音楽でも、本当に優れた作品の中には、力みがなく、あたかも何の作為もなく自然に出来上がったかのように感じられるものがある。

 

 何がそうさせたのだろうか。

 例として、アントン・ブルックナーの後期交響曲についてみてみよう。後期三曲の始まりである第7番は実に明るく、肩の力が抜けている。後半の二つの楽章はごく軽いが、重量感のある前半をじっくり味わった耳にはそよ風のように心地よい。全体として姿のよい音楽に仕上がっている。筆の運びが実に軽やかだ。第4番、第5番の終楽章のように、歩みを進めては戻る様子がない。だが、7番の軽みはこのような絶え間ない研鑽があったからこそ到達しえた境地である。これに対し、第8番は後半にアダージョと超弩級のフィナーレをおき、あたかも城砦のようである。また、未完に終わった最後の第9番においても激しく煩悶しながら筆を進めたようすがはっきり見て取れる。

 音楽の例をもうひとつ挙げる。ヨハネス・ブラームスもまた重厚な筆致で知られる。しかし、管弦楽作品としては比較的初期の「セレナーデ」第2番は、その後のブラームスらしいサウンドの予兆はあるが、透明で明るく、何とも優しい調べがつむがれている。ここでも余分な力は全く感じられない。のちの四つの交響曲のような重厚さがなく、軽やかな「歌」を楽しむことができる。一つ一つの音の置き方に惑いがない。悩みに悩みぬいて完成された交響曲第1番とは全く異なり、音楽が何かに導かれたかのように滑らかに展開する。

 ところで、音楽や絵画は制作そのものにある程度の時間を要する。一方、写真は一瞬を切り取る技芸である。ここぞというときを見逃すことが許されない真剣勝負。したがって、絶えず技術と眼力を磨くことが求められるだろう。カルティエ=ブレッソンが自らの作品集を『決定的瞬間』とうたったゆえんである。この作品集で、写真家のカメラは、計算されつくした構図ながら、すべての被写体の姿勢・形・方向がぴたりとそろった一瞬をすっと捉えている。力みがない。

 芸術に限らず、他の分野でも同様のことがいえる。たとえば、かのアイザック・ニュートンも、来る日も来る日も力学の問題を考え続けていた。だからこそ、ある日リンゴが落ちるのを見たことをきっかけに万有引力を発見したのだ、と聞いたことがある。このときも、一つのリンゴの落下を目撃したことが引き金となり、ばらばらに点在していたことどもが自然につながり合い、統一的な理論へと収斂していったのではないかと想像する。

 いくつかの例をみてきたが、どの場合にせよ、絶えざる鍛錬を怠らなかった人の背中を、ある大きな存在が押してくださったのではないか。たゆまぬ努力を積んだ人をこそ見えない手が導いてくださる。そして、さもなくば「逃げ去って」しまう決定的瞬間をつかみ取らせてくださるのだ。

 

2010年9月25日 「人はなぜアートを求めるのか」

 

 なぜ人は音楽を聴き、絵を観るのだろう。

 そのおおもとの理由をたどっていくと、作り手による表現に触れたいということに行き着く。

「表現」は、作り手の世界観、ものの見方を端的に示す。

対象(人物でも、木でも)のたたずまいをキャンバスに描くにせよ、自分の内なる思いや印象を音でつづるにせよ、「表現」するとは作り手にとって世界がいかなる姿で立ち現われたかを、それぞれの媒体に映しとって示すことだ。

 したがって、作り手によって創られたものに触れようとするとき、人は自分とは異なる世界観に触れたいと感じているのだ。

 人間は社会の中で生きることを余儀なくされる。社会の中にある限りにおいて、人は自分とは異なる存在に日々触れる。触れざるを得ない。

自分と異なる存在に触れることで自分が変わる。自分の世界が拡がる。

社会における生存に必要な活動、たとえば食事や睡眠や仕事・学業といったサイクルの中においても、「非・自己」との出会いは絶えず発生する。だが、それでは満たされない、もっと自分を変えたい、今の自分の枠を超えたい、そんな思いにかられたとき、人は音楽や美術にさらに強烈な他者(の世界観)を求めるのだ。

 では、強い他者をそれほどまでに欲するのはなぜだろう。

それは、自分という存在をよりよく摑みたいからではないか。

そもそも、一人ひとりの人間は「個」として在るものだが、一人では存立し得ない。なぜなら、他者あっての自分なのだから。


自己と異なる存在に触れることを通じて、人は自分のありようを確認することができる。おのれと全く違う他者と引き比べることによって、自らのすがたをより鮮明にとらえることができる。強い他者を求めるのは、自分という存在をさらに深く把握したいという欲求の表われなのではないか。他者は自己をうつす鏡であり、比較基準であり、また、役割モデル(role model "お手本")である。

芸術(art)とはおのれを表現するすべ(art)であると同時に、おのれを知るための手だて(art)でもある。


それゆえ人はアートを求めるのではないだろうか。

 

2010年9月20日 telek_gift tour '10

岩附辰治氏主催による音響サロンイベントにうかがう。出演者は三組。

・荒木健太
レトロコンピュータMSXで創作を続けている音楽家。ライブを聴くのは実に6年ぶりであった(不勉強でごめんなさい)。心地よく乾いたサウンドの方向性は以前と変わらないが、音の厚みが増し、そのうえ映像も加わって音楽作品としての陰影が深まっていると感じた。一つのメディアに徹底的にこだわり、掘り下げることによって至ることのできた境地である。

・藤田建次
うたものの弾き語り。誰かとつながることを、半ばあきらめつつもどこかで希求してしまうような歌詞。だが、甘くなりすぎないのはきちんと構成されたメロディラインの力によるものか。巧みに操るキーボードの音色にも、少し切ない歌声にも、「清澄」ということばが浮かぶ。

・畔
切り絵による影絵を投影しつつ、あらかじめ作成してある音源も流しながら、カシオトーン、鍵盤ハーモニカ、リコーダーなどを演奏する。音楽は、一見取り散らかっているようでいて、音一つひとつが選び抜かれたものだ。素朴な映像も無駄がなく、美しい。淡く黄色がかった画面は夕暮れの景色のようで心和み、どことなく郷愁をさそう。深く吟味された音、巧みな造形、いずれも細部まで作りこまれており、心地よい音空間に身をゆだねるのもよいが、機会があれば、改めてじっくり「解剖」するように味わってみたい。

三者ともどこか懐かしさを感じさせるサウンドだが、主宰の岩附氏が挨拶で述べていらしたとおり、決して懐古趣味ではない。それぞれが独自の音楽観を確立していて、各自の世界を表現する方法を追い求めていった結果、たまたま少し時代を溯った様式・媒体を選択するに至ったということだろう。

岩附氏はご実家の当主の大きな名前を襲名なさったとのこと。ますますご多忙のことと思いますが、ゆっくりのペースで構いません、これからもぜひ今回聴かせていただいたような良質な音楽を紹介してください。

(gift_lab)

 

2010年9月16日 「期待」と「希望」

 もう20年以上前になるが、哲学者イヴァン・イリイチがインタビューの中でこんな趣旨のことを話していた。


「これからの世の中でわたしたちができるのは「期待(expectation)」することではなく「希望(hope)」を抱くことだ」


前後の文脈はすっかり忘れてしまったが、このことばが強く印象に残っている。

 ここで言う「期待」と「希望」はどうちがうのだろうか。

ごく簡単に言えば、


・「期待」は自分にとって望ましいことが起こる(あるいはそういうことを誰かがしてくれる)ことを求めること
・「希望」はいつか自分にとって望ましい状況が生じると信じること


となろうか。

 まず、「期待」から考えてみる。「期待」の根底にある「求める」とは、何かを得たい、自分のものとしたいという感情である。

親が我が子に期待をかけるという場合、親が子どもに親の理想の実現を「求めて」いることが多い。

このように、「期待」は「求める」ことゆえ、「欲」にもつながる。もちろん、人間が生きていく上で、何かしらの欲(食欲、知識欲など)がなければ前には進めない。欲は人が前進するための原動力ないし燃料のようなものだ。だが、欲を持ち過ぎると破綻をきたす。バランスを失ってコースアウトする。

 他方、「希望」はどうか。ごく短くまとめるならば、「未来を信じること、可能性を信じること」である。もう少し踏み込んで言えば、自分が正しいトラック(道筋)にいると信じることだろう。この心持ちなくしては、やはり前へは進むことができない。

自分が本当に正しいトラックにいるか否かを絶えず本気で考え、真面目に検証し、努力を続けているならば、「求める」とは異なり、信じる気持ちを持ちすぎるということはないだろう(言うまでもなく、「狂信的」となれば、論外である。それゆえ、あれこれ前提条件をつけた)。

ところで、「信じる」とはどういうことだろう。「信じる」とは結局のところ、ある考えを抱いていて、それが正しいと肯定することではないか。赤塚不二夫がバカボンのパパに言わせているところの「これでいいのだ」という発想である。つきつめれば自己を肯定することでもある。

「信じる」の対極にあるのが「疑う」である。「疑う」は、誰かの言ったこと、広く言われていることに対して「本当はそうではないのではないか」と考えること、すなわち、「否定」が含まれている。ここからも、「信じる」の根底に「肯定」があることが裏づけられる。

 さて、それでは、「信仰」というものは「期待」か「希望」か、どちらなのだろうか。

信仰の場においてはこの二つがないまぜになっていると思う。

大きな存在の前に祈る人は何かを求めている。富を得たい、試験に合格したい、よきパートナーを見つけたい、病気を治したい、などなど。

しかし、一般の神社仏閣において、奉納をして、手を合わせて、それで直ちにその何かが得られるとはたぶん誰も思っていない。新薬をのんで、ほどなく症状が改善されるのとはわけが違う、ということは大多数の人が了解しているはずだ。

おそらく、多くの人は求める何かをいつかは手に入れられると「信じたい」のだ。

つまり「希望」を持たせてもらう、「希望」を抱くための勇気をもらう、そして、今のあなたでよいのだと言ってもらう、すなわち肯定してもらうために、さらにはそれによってある種の安心を、心の平安を得ようとして、信仰の場に足を運ぶのだ。

もし、奉納をして、手を合わせれば直ちにその何かが得られると真剣に思わされているとしたら、それは紛れもなく霊感商法だろう。奉納の「対価」としての「利益」を求めている(そのような「期待」を抱かされている)のだから。

「期待」の根底には「求める」があると述べた。「求める」の対極にあるのが「与える」である。「与える」とは、自分の所有権を放棄することだ。自分が何かを失うことによって、相手に恩恵をもたらすこと。「与える」の発想は、推し進めていくならば、相手を幸せにしようとすることにつながっていく。

人が他者に与えられるものには限界がある。だが、大きな存在には限界がない。いくらでも与えてくださる。もちろん、物理的なものではなく、上で述べた「勇気」や「肯定感」、そして「心の平安」を。むろん、その前提として「信じる」ことがある。

このように、「期待」と「希望」はもともとの性質を全く異にするものながら、根底にある発想同士が複雑に入り混じっている。ご神前でご奉仕するときも、この複雑で微妙な感情の交錯する様に思いを致したい。

 

2010年9月13日 「マン・レイ展 Man Ray Unconcerned but Not Indifferent」

 マン・レイは、ソラリゼーション、レイヨグラフなどの新しい技法を編み出した写真家として知られている。今回の展示は、写真作品のみならず、ドローイング、立体など、生涯にわたる芸術活動の全貌に迫ろうとするものであった。


 写真家としての地位を確立したのち、マン・レイは写真に対するフラストレーションを募らせ、ついには写真との決別を宣言するに至ったという。写真家としてではなく、画家として世に認められることを望んだというのだ。一方で、そのような決別宣言をしつつも、のちに普及し始めたカラー写真やインスタント写真に対しては強い関心を寄せ、色彩を保持するための技法を開発したりもしている。


 彼はなぜ写真と決別しようとしたのだろう。あくまで想像だが、マン・レイはすでに存在するもの・作られたものを「写す」ことに飽き足りなかったのではないか。それまで存在していなかったものを自らの手で新たに作り出すことにこだわりたかったのではないだろうか。そういう目で見てみると、展示作品の中に「手」そのものに焦点を当てたものが多いことに気付く。親しい友人であった詩人ポール・エリュアールとの共作も『自由な手』と題されており、そこには、ピカソのポートレートの手の部分のみを切り取って利用した作品もある。その他、「目」や「唇」(「天文台の時−恋人たち」)など身体部分を切り出す作品も多い。また、男性のシンボル(「プリアポス」)も繰り返し扱っている。こういったことから、マン・レイにとっては「からだ」というものが重要な意味を持っていたのではないかと思われる。


 マン・レイの時代の写真はもちろんアナログ写真であり、暗室での現像作業が必須であった。つまり、先述のとおり(たとえ一からの純粋な創作とはいえないにせよ)、手を使った制作だった。彼が結局最後まで写真を捨て切れなかった理由は、写真という分野の身体性にある。


 ダダイストやシュールレアリストとの交流が注目されることの多いマン・レイだが、「自分の手でものを作る」ことにこだわった作り手として見ることができるのではないかと感じた。

(新国立美術館)

 

2010年9月4日 谷郁雄×松浦弥太郎「暮らすこと、創作すること」

詩人谷郁雄氏の新著『君のとなりに』刊行記念のトークショー。


印象的だった話をいくつか拾ってみる。


・「暮らし」というのは時間と場所の積み重ね。どこかにいて、何かをし、織り上げていくことにほかならない。「暮らす」とはそのような織物を創作することだ(谷氏)


・一つのことをひたすらよく見る。「景色にしない」ことが大切。外界を見る「窓」は無意識でいるとどんどん大きくなってしまう。だから、自分はあえて、できるだけ「窓」を小さくしている。世の中の無限に対してどう対処するかが課題。(松浦氏)


・生活することが好き。生活するということには飽きない。(谷氏)


・何かを思いっきり好きになること。そして10年ぐらい毎日続ければ、何かが見えてくる。(谷氏)


・「好き/嫌い」「おいしい/まずい」のように「分ける」発想をはずそう。暮らしの目的は(そういう Yes か No かの)答えを出すことではない。(松浦氏)


・「自分を消す」こと。そして白紙のところにことばが落ちてきてくれたらと思う。(谷氏)


・生きるうえで大切にしていることは「正直、親切、新しい」ということ。(松浦氏)


・(「大人になる」とは?との質問に)何かを背負うことだと思う。何かを背負ったほうが成長できる。(谷氏)


・(不遜ながら「何かを思いっきり好きになる」ことと、「自分を消す」ことの関係についてうかがったところ)エゴを持ちながらもそれを透明にすること。「好き」といっても、骨董好きのお父さんのように自分だけが楽しければよいというのではなく、オープンにしていくこと。(谷氏)


押してもだめなら、引いてみる、その「引き方」の加減が大切。(松浦氏)

松浦氏は、伝えたいこと、話したいことが泉のように湧き出す人。一旦話し出すと止めようがない様子。そのことばの奔流の中に、鋭く光るフレーズが次々に現われる。対して、谷氏は物静かながら、要所要所で隙のないことばを嵌め込んでいく。対照的ながら、お二人とも、ことば遣いのプロ。わたくしがなりわいとする理屈によってではなく、感性と経験によってのみ育むことのできるわざである。

 

谷氏から、「骨董、やってるでしょう?」と図星をさされた。人を見る眼力が違う。きっちり叱っていただいた。恐れ入りました。心を入れ換えます。

※『君のとなりに』から一編を引かせていただく。

 SORA


君の上に
空がある

空はからっぽ
なんかじゃない

空はその中に
たくさんのものを
隠している

それで君は
空を見上げて
何かを思うのだ

勇気をもらったり
反省したり
発見したり

見つけたいものが
そこにある
見たくないものも
あるかもしれない

そんなにも
たくさんのものが
隠されているのに
ただ青く広がり


軽々と浮かんでいる

 

君のSORA

(青山ブックセンター本店)

 

2010年9月3日「没後25年 有元利夫展 天空の音楽」

有元利夫の描く画面は常に舞台である。「見えない出来事」(1980)というタイトルの作品があるが、ここに端的に示されるとおり、彼は、舞台上の出来事(インシデント)の一瞬を切り取って描く。有元がバロック音楽に深く傾倒していたことはよく知られている。だが、彼は音楽によって惹起される感情を画面上に表現しようとしたのでは決してない。

絵画は静的な表現だが、動きの暗示される舞台を設定することで、連続した時間の中の一点を捉えた表現であることが明らかに示される。画面上に切り取られた一瞬の、前にも後にも、限りなく流れる時が存在するのだ。

彼は「僕が舞台を描くのは、そこが演技をする空間だから、嘘をつく空間だからと言ってもいいかもしれません。いっぱい嘘をついていっぱい演技をして様式を抽出すれば、より真実に近づき本当のリアリティーが出せると思うのです」(『有元利夫と女神たち』)と述べている。有元の言わんとするところを忖度するなら、様式の確立された音楽と並行的に、時間の中で展開される舞台を描くことによって、いまだ確固たる様式を持たぬインシデントに様式を与えようとした、ということになるのではないか。

ところで、彼の描く舞台の背景、つまり書き割りの裏側には何があるのだろう。

実はそこには何もないのではないか。舞台上で展開されるインシデントこそが画家にとっては−逆説的な物言いになるが−リアリティをもった心象風景にほかならない。舞台の上の絵空事だとタカをくくっていた観衆に向かって、有元は、これがあなたたちの「現実」なのですよ、と言ってのけたかったのかもしれない。


(東京都庭園美術館)

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